"" 子どもたちとその家族
ー道を拓いた人たちー
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私たちにもっとも多くのことを教えてくれたのは,プロジェクトを通して実際に関わった子どもたちとその家族だった。それゆえ私たちは,その子どもたちとその家族のことを話すことにする。大変苦労してこれまでに関わった多くの子ども達から3人の子ども(Dana,Ashley,Sheronda)を選び,その子ども達の実例を通して私たちの経験の中で重要であると思われる側面を描いていこうと思う。

ダーナ:第一の子ども
アシュレイ:気高くリスクと生きる
シェロンダ:医療センターから幼稚園へ
わたしたちが学んだこと


ダーナ:第一の子ども。


この論文を書いている今,ダーナはカンザス州ローレンスの小学6年生である。後にCIPプロジェクトへと発展することになるこのプログラムに参加する最初の子どもであったダーナに私たちが出会ったのは、彼女が3歳の時であった。ダーナはとってもかわいい子どもで,大きな茶色の目,ふさふさした黒い髪,オリーブ色の肌,そして直接心に語りかけてくるような温かい微笑をたたえていた。彼女は知的障害と痙直性の四肢麻痺を含む複数の障害をもち、頸定は未獲得,歩くことも,1人で座ることも話すこともできないという状況であった。はじめてダーナと会った頃の思い出を辿ると次のような状況であった。


私がはじめて出会ったとき,彼女は3歳だった。重い障害をもった幅広い年齢層の人(たいていは大人だったが)が込み合って詰め込まれたような施設の部屋のマットの上にダーナは横たわっていた。その部屋は大変込み合っていて,重度の知的障害者や身体障害者や重症の病人が、殺伐として人手の足りない州立施設の病院を思わせるような建物の中に詰め込まれているときに出される物音や匂いで満たされていた。床上8フィートの高さで壁に取り付けられた大型テレビから流れてくるのが唯一の話し声だった(Thompson, Wickham,Ault,et.al.,1991,p.12)。
そこを訪問してすぐに、私はチェルシーという3歳の孫娘のことを考え始めた。そしてダーナとチェルシーのそれぞれの日々の生活の様子を想像しては、その経験の大きな違いについて考えずにはいられなかった。ニコラス・ホッブス(Nicholas Hobbs)の言葉が,心に浮かんできた−All children should know joy … 「子どもはみんな、どんな子どもも生きる喜びを知るべきである」。ダーナの生きる喜びを知る機会は,どこからくるというのだろうか?(Thompson, 1994, p.3)


それから数カ月のうちにダーナは,カンザス州ローレンスに住むすばらしい里親によろこんで引き取られることになった。そしてそれに伴って,1986年の秋私たちは,ダーナをよろこんで迎え入れてくれるような地域の幼稚園あるいは保育園を探し始めたのである。探し始めた当初、障害児対象の幼稚園のクラスには空きがなく,また重い障害を持った子どもを受け入れてくれるような地域の幼稚園や保育園もなかった。ダーナの里親は,私たちと同じく、ダーナが他の子どもと一緒にいる機会をもち,1日のうちのある一定の時間は家から出て、外の幼稚園や保育園で生活をすることが大切だと信じていた。


私たちは,地域でも最も評判の高い幼稚園の1つであるレインツリー・モンテッソーリスクールと連絡を取ることにした。そこは、いつも入園を希望する家族の名前が長いウェイティングリストになるような幼稚園だ。レインツリーに電話をかけた時、私たちはダーナの詳しい様子を話すことから始めた。同時に,ダーナが受け入れられた場合、障害幼児のインテグレーション(統合)に興味をもった大学の学生が,先生のお手伝いとしてダーナのクラスに入ることが可能なこと。それによってダーナのもつ特別なニーズを満たし,ダーナが教室にいる間の大人対子どもの割合を高めることができることを説明した。


私は心の中で半ば断られるだろうと思っていたし,よほど私が上手に「売り込」んで、なぜ、ダーナのような子どもを受け入れることが、レインツリーにとってもよいことであると思われるか、その辺りをうまく説明しなければならないだろうと思っていた。私は,生きている限り,パム・シャンクスのその時の返事を忘れることはないだろう−「園長であるリアナもわたしも、あなたが私たちのことを考えて声をかけてくださって、とてもよろこんでいます!喜んでダーナをお預かりさせていただきます。いつから来始めますか?」
たった数ヶ月後,私たちはレインツリーモンテッソーリスクールにいるダーナに会いに行った。その"子どもの家"で過ごすダーナの姿は、以前施設にいたダーナの記憶とあまりにも際だった対照をなしていたので,これまで味わったことのないほどの強い感動を覚えた。ダーナはクラスの中でその存在を尊重され,敬われ,たくさんのお友達に取り囲まれて,くつろいでいるように見えた。子ども達は、ダーナを自分たちの仲間として受け入れているようだった。そう。ダーナは他のどのお友達とも変わらない、クラスの一員なのだ(Thomson,1994 p.3)。

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アシュレイ:気高くリスクと生きる


アシュレイは6歳だが,年齢のわりには大きく,人目を引く印象的な女の子である。カールした黒い髪を編んでリボンを付けて横に垂らしていた。かわいい丸顔に黒い目をして,柔らかい茶色の肌にアクセントをそえるように長いまつげがある。私たちは彼女が2歳のとき初めて出合った。彼女は車のシートベルトをしない状態で事故にあい,脊髄損傷を負った直後だった。小児科の集中治療室に入り、かなりの重傷を負いながら一命をとりとめたことから,「奇跡の子」と呼ばれた。数か月後に家に戻ったが,第1頸椎から始まる全身麻痺が残り、トレイキ、呼吸補助のための人工呼吸器,そしてGチューブをつけた状態での帰宅であった。


はじめ,アシュレイは0から2歳児を対象とした早期療育プログラムのサービスを家庭で受け,セラピストと幼児障害児教育の専門家たちが、家庭で直接アシュレイと母親と看護婦と関わっていった。アシュレイが3歳になった頃から、アシュレイを他の子どもたちと一緒に幼稚園に通わせる、という強い関心を母親が口にするようになった。それからの2年間,通称チャプター1と呼ばれる初等および中等教育教育法(Elementary and Secondary Education Act) に基づいて設立された公立小学校の校舎内にあるとってもよい幼稚園に入園した。それ以外にも夏休みには,私立のモンテッソーリ幼稚園に通った。アシュレイは,はじめは週に数日,1日に数時間ずつ通うことから始め、1年以内に週に丸5日,全日参加できるようになった。


アシュレイの入園は,医学的に複雑な状況と最重度の身体障害という難しさを抱えての入園であった。アシュレイのケアをすることに対する怖さと心配は,障害児教育と普通教育の職員が共通に抱いたものだった。スタッフが主に心配であったことは,アシュレイの呼吸、痰などの吸引に関する手続き,及びアシュレイがもつ身体状況から発した様々な健康上の問題の管理に関するものであった。一方,アシュレイを迎えるにあたって困難ではなかったことは、彼女を教室に迎え入れてくれ,少し大人が手伝えば,アシュレイが参加できるように自分達の遊びにちょっとした工夫を加えてくれるような、そんな"アシュレイの理解者"とも呼ぶべき仲間たちをクラスの中で見つけることであった。


アシュレイが普通の幼稚園に入園するには体が弱すぎるというのであれば,障害児のための特別な幼稚園に入園するのにだって弱すぎると言えるだろうとわたしたちは考えた。アシュレイが幼稚園に通うことに伴うリスクを考え、家庭で24時間看護を受けながら過ごすようにとある医師は勧めた。アシュレイをインクルーシブな幼稚園に通わせるという母親の決定は,アシュレイが人生の主体的な主人公になれるように、という母親の想いと努力に基づいていた。アシュレイの幼稚園通園は,関係する職員(教師,セラピスト,補助の先生、看護婦など)に多くのことを教えてくれた――それは,各スタッフの役割と責任ということについて、そして、教室内における一貫した信頼できる医学的手続きおよび緊急時の手続きの確立ということについて、伝統的なこれまでの考えを見直すことであった。そしてもっとも大切なことは,アシュレイがもつ子どもであることの権利,そして生きる喜びを知る権利の大切さ、そのことをアシュレイを知る全ての人間に再度思い出させてくれたことである。

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シェロンダ:医療センターから幼稚園へ


現在シェロンダは,小学校の建物内にあるインクルーシブで5歳から7歳までの子どもの混合クラスで元気に過ごしている。シェロンダには、数人の「親友」と呼べる近い友だちも含めて多くの友達がいる。そしてその中の特に仲の良い友達がマットだ。より場に合った適切な行動を使うために周りの大人の援助を多く必要とする一方で、シェロンダはよくしゃべり読み書きを覚えるようになっていた。私たちがはじめてシェロンダに会ったときは,とってもかわいい3歳児で,大学の医療センター内にある自閉症児のための教室に通っていた。教室には4人の子どもと1人の教師と2人の補助教員がいた。
シェロンダは言葉をもたず,たくさんの問題行動を呈していた。1番の問題行動は,走って逃げ出すことであった。教師から何かを指示されたり,周りの環境や日程が変わったりすると、シェロンダは激しいパニックに陥いりやすかった。はっきりした理由も見あたらないのに,友達に噛みついたり,叩いたりすることもあった。


幼稚園に通うようになって2年目のとき,シェロンダは4歳だったが,彼女のいたプログラムが医療センターから切り離され,4人の子どもたちはそれぞれ別のインクルーシブな幼稚園/保育園に通うことになり,元のプログラムにいた障害児教育専門の教師はそれぞれの受け入れ園の教師のサポートをすることになった。4人の子ども達に対する障害児教育およびその他の関連サービスは、新しく入園したそれぞれの園の中で提供され、それまで医療センター付属の自閉症児用教室でシェロンダたちを教えていた障害児教育専門の教師が、各園を回ってそれぞれの園の教師と共に互いに協力/相談しあう体制が整えられた。また、障害児教育に関するトレーニングを受けた追加のスタッフが,4人の子どもたちが入った各教室に補助教員として加わった。シェロンダが入ることになった保育園では全日預かりの体制が整っており、仕事を持ったシェロンダの母親と父親には好都合な環境であった。このように周到に準備されたものではあったが,18人もいる保育園のクラスにシェロンダが入ることに関して,大きな気がかりも関係者の間にあった。というのも、彼女がもつ問題行動と家や教室からの脱走、ということが今回のインクルージョンの成功を妨げるという危険性が考えられたからだ 。


シェロンダがこの保育園に通い始めて教室に慣れるための期間,障害児教育専門教師カートニーにとっては何かと苦労の多い時期であった。権威ある医療センター内に設置された自分のクラスの中で、4人のかわいい子どもたちの担任として働くことから、地域の異なる4つの幼稚園/保育園に巡回し、子ども達が入ったそれぞれのクラスを担任する異なる4人の教師と協力しながらやっていく体制へと変わったことは,カートニーにとっても適応に時間を要する、大きな変化であった。カートニーは,シェロンダが教室に慣れ始めた時期のある日のできごとを思い出してはうれしい気持ちになるという。それは、シェロンダのクラスを訪れた時にすぐ彼女のことをみつけられなかった日のことである。その時カートニーはとっさに、シェロンダが教室を抜け出して保育園のまわりか街中をうろついているに違いないと思い、パニックにも似た気持ちに襲われた。カートニーが担任教師に近付いていくと、彼女は静かに積み木遊びをしている数人の子どもたちの集団を指さした。カートニーがその数人の子どもたちを注意深く見つめると、なんとシェロンダがその中にいることに気づいたのであった。


私は本当に驚きました。あの子が集団にすっかりとけ込んでいたんです。他の子どもたちと協力して何かをしていたわけではないけれど,お友だちのすぐ近くにいて,同じように積み木遊びに集中していたのです。彼女は他の子どもたちとまったく同じように見えました。私の目は涙であふれ,ふたたびあの子を見失ってしまいました(C.Erickson,1992年10月12日/私的なやりとりより。)


シェロンダは夏休みの間の3ヶ月間、サマースクールに入る必要があったが、それまで通っていた保育園ではサマースクールをやっていなかった。そのため5歳の誕生日を前にした夏に,夏の間も全日預かりが可能な私立のモンテッソーリ保育園に移ることになった。それまで通っていた保育園でシェロンダが受けていた障害児教育および関連サービスも、シェロンダの移動に伴って新しい保育園で提供されるようになった。シェロンダはそこでも順調に進歩を続け,モンテッソーリ教育法の特徴の一つでもある、子どもが自分でやりたい活動を選んで自ら開始するというその園でのやり方にもよく適応した。シェロンダがしゃべるようになったのはこのころであった。この一大出来事の詳しい話を聞こうと興奮した私たちは,どんな状況でどんな様子だったのかをその場を見ていたスタッフに詰め寄って聞いた。


「なんて話したの?誰に向かって話したの?どんな状況で話したの?」
彼女が取り組んいた活動にちょっと近づきすぎていた友達に向かって一言。「どいてちょうだい。」って言ったの。(J. Keating,1993年4月10日/私的なやりとりより。)。


シェロンダの母親は,これまでずっと、そして現在もシェロンダが通う園や学校と密な関係を保ち積極的に関わっている。彼女は熱心に,はじめは週2回,後には月に1回,仕事のない日にシェロンダの教育に直接関わる人が集まるミーティングに出席し,園のスタッフや障害児教育専門のスタッフなどと意志疎通を図っていた。シェロンダが小学校にあがる直前の春には、シェロンダが入学することになっている小学校を訪れ,校長とクラスの担任に会いもした。彼女は、シェロンダが小学校に入った現在も、シェロンダの教育に対して大変積極的な親である。彼女は親として、自分の娘のために何を求めているかがよく分かっており,娘の教育に関わる様々な専門家たちとも、チームの対等なメンバーとしての良い協力関係を築いている。

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わたしたちが学んだこと


ダーナ,アシュレイ,シェロンダにまつわる、これらのようなストーリーをもっともっと今回のプロジェクトに関連づけて紹介することもできる。受容的でインクルーシブな環境の中で迎えられた重い障害をもった子どもを初めて見た時に沸き起こってくるような、劇的に何かが「変わる」瞬間を描いたようなストーリーたちを。その瞬間とは,別の角度から障害を持った子ども達を見直した時、それまで自分が無意識にもっていた「子ども」という概念や見方が、思いがけず大きく揺らぐ、そんな瞬間のことである。パラダイムに変化が生じた時、「目からうろこが落ちる」瞬間がやってくる。(Covey, 1989, Kuhn, 1970) そして同様に、他の全ての子どもと同じように、生きる喜び、子どもだからこそ味わえる楽しい経験、そんなことに対する権利とニーズをもった一人の子どもとして、重い障害を持った子どもを捉えることの真の意味を理解できた時、その瞬間がやってくる 。


ここで紹介したストーリーたちは,CIPプロジェクトに参加した大人たちが共通して気づいたこと、――小さな子どもたちは,障害をもつ人のことを大人が見るようには見ていないし,大人が反応するようには反応しないーーということのいわば「生きた証拠」と言えるだろう。また幼児期が、障害者とその家族が直面する社会的バリアと偏見のサイクルを壊しはじめるのに、最適の時期である,という私たちの信念を強く裏付けるものでもある。
ただし私たちの観察は,子ども達が、重い障害をもったクラスメイトが呈する違いについて気づいていない、ということを示唆するものではない。子ども達が数知れず投げかけてくる、お友だちのもつ障害についての質問からも,彼らがそのことに気付いていることは明らかである。以下のような子どもたちの言葉から,彼らがお友達のちょっと違うところに興味をもち、知りたいと思っているということがよく分かる――「5歳になっても,プールの中を自分で歩けない子どもをぼくは見たことがないよ。」,「あの子,どうして自分の口でお話しできないの?」,「あの子,どうしていつも涎が出てるの?」( Thompson, Wickham, & Wegner, 1991)


しかしながら,障害をもつクラスメイトについての子どもたちの質問は,個人の価値についての判断を反映しているのでも,拒絶を表しているのでも,クラスメイトが自分たちと同じ場所にいることの権利を疑っていることを示唆しているのでもない。(Shanks, 1990)クラスの友達やその場に新しく入ってきた大人に対して障害をもつお友だちのことを説明しようと、前に大人から聞いた内容をそのままくり返して説明しようとする子どもの姿を見るのは珍しくない。たとえば自分が直接聞いて得た答えではなくても,大人が誰か他の子どもに答えている時に傍にいて聞いた話しを繰り返して言うかもしれない。障害をもつ子どもについてあれこれ教えてくれたり,説明したりするのは3〜5歳の健常の友達である場合が多い。一度も障害をもったお友だちに関して大人に直接質問したことはないけれど、常に、興味をもった率直なまなざしでそのお友だちをみつめてきた子どもが、次のようにその友だちの事を説明してくれるかもしれない。


ジェイコブはね,筋肉がうまく動かないから話せないんだよ。けどね,サウンド・シリンダーのことだったら,なんだって知ってるんだよ。手に持って振ることはできないけどね...でも2つのシリンダーの音が同じだったらうなずいて教えるんだ。ちゃんと分かってるんだよ。

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